西大寺東西両塔は当初、八角七重塔として設計されたが、奈良時代末期の緊縮財政の中で縮小され、実際には四角五重塔として創建された。その両塔も延長6年(928)に雷火でいずれかが焼失したと伝えられる。その後、平安末期に修造され、鎌倉時代に塔供養が行われたのは、おそらく東塔のことと思われ、叡尊は東塔を中心とする宝塔院という区画を西大寺復興伽藍の中核とした。その東塔も1502年に焼亡し、その後は再建されないまま塔跡のみが遺る。昭和31年の発掘調査で塔跡周辺に八角に掘込地業が施されていることが判明し、当初の八角塔の伝承が裏付けられた(現在、周囲に八角の葺石で囲っている)。