聚宝館
金銅宝塔(壇塔)
国宝 | 鎌倉時代 | 金銅製 総高91㎝ |
かつて五重塔に安置された高さ90㎝の宝塔で、密教修法を行う大檀の上に置いて用いられたことから壇塔とも呼ぶ。方形基壇に円筒状の塔身を持ち、相輪のある宝形造の屋根を載せる。塔身の四方に扉があり、その初層には金銅如意宝珠、二層目に舎利をこめた水晶五輪塔を安置する。文永七年(1270)叡尊上人が舎利を納めるために造立したものであり、鉄宝塔とともに鎌倉期の舎利荘厳美術の双璧と評価される優品である。
大神宮御正体
重要文化財 | 鎌倉時代 | 木造 黒漆塗 総高55.5㎝ |
伊勢神宮の内宮・外宮の御正体とされる二面の鏡を木製黒漆塗の箱型厨子の中に納める。両面に観音開きの扉があり、一方の扉を開くと胎蔵界曼荼羅を描いく中板があり、その裏面を月輪に彫くぼんで仏眼仏母曼荼羅を描き、そのくぼみに内宮御正体である桜花双鶴鏡(大円鏡)を嵌め込む。他方の中板には金剛界曼荼羅を描き、その裏面にを月輪に彫くぼんで愛染曼荼羅を描き、そのくぼみに外宮御正体である甜瓜蜘網双雀鏡(小円鏡)を嵌め込む。各々には白・赤地の戸帳が付属する。伊勢信仰を密教的に解釈し、内・外宮を胎蔵・金剛の両部に配当する中世の両部神道説を具象化した貴重な遺品である。
吉祥天女立像
重要文化財 | 平安時代 | 木心乾漆 彩色 像高184.3㎝ |
西大寺資財流記帳によると創建当初の四王堂に吉祥天の塑像があったことがわかるが、本像とは像容が一致しない。平安時代の保延6年(1140)の七大寺巡礼私記には四王堂に等身吉祥天像があったことが記載され、これが本像と考えられる。木心乾漆造とされるが、後世の補修が加わって複雑な構造となっており、奈良時代末~平安初期に初作されたものが平安中期頃に補修されたものと考えられている。鎌倉時代に叡尊上人が四王堂で実施した最勝会が恒例化するが、その際の本尊像のひとつであったと思われる。
塔本四仏坐像
重要文化財 | 平安時代 |
木心乾漆造 像高約70㎝~75㎝ |
塔本四仏として伝えられる四体の如来像は、東西両塔のいずれかの一層目(塔本)の四面に外向きに安置された如来像と考えられる。奈良時代に流行した木心乾漆造で、宝亀11年(780)の資財帳には記載がないが、その後の奈良時代末~平安初期に造立されて安置されたものと思われる。当初の尊名は不詳であるが、叡尊上人によって弘安6年(1283)に修造され、尊名も阿閦、宝生、阿弥陀、釈迦の四如来と定められた。
毘沙門天
鎌倉時代 | 木造彩色 像高102・5㎝ |
右手を振り上げて戟を握り、左手の掌に宝塔(欠失)を捧げ、邪鬼の上に立つ通形の毘沙門天像。檜材の寄木造。叡尊上人の住房であった西室(西僧房)に安置されていたと伝える。
慈真和上像
密教法具
鎌倉時代 | 金銅製/白銅製 |
当山には密教修法で使用する鎌倉時代の秀逸な密教法具が複数揃い伝わっている。金剛盤・五鈷鈴・五鈷杵・三鈷杵・独鈷杵の金剛盤上一式も数組伝わるほか、火舎・六器・華瓶などの一面器などの大壇具が伝わり、光明真言会の際に使用する仏具として現在でも実際に使用されている。宝塔、舎利塔などと同様に、叡尊上人の配下に優れた鋳物師、金工細工集団が組織されていたことの証左であろう。
行基菩薩坐像
重要文化財 | 江戸時代 | 木造彩色 像高67㎝ |
民衆とともに生き文殊菩薩の化身といわれた行基は、文殊信仰を篤くした叡尊や忍性にとって範とすべき存在であった。本像は、享保15年(1730)に菅原寺(喜光寺)住職・寂照が発願した木彫像であるが、行基遷化の地である喜光寺は近世末まで西大寺末寺であり、近代になって本山である西大寺に移安されたものと思われる。
西大寺版板木
重要文化財 | 鎌倉時代 |
鎌倉時代中期以降、西大寺では叡尊上人の寺院復興・教学振興の下で、戒律関係の経論を中心に活発に開版印行が行われた。現在、当寺には124枚の古版木が現存する。科文の開版の多いのが西大寺版の特徴で、科文(大科)とは主に初学者の勉学の便宜のために経論などの文段を分けて文意を了解しやすく項目したものである。ここに掲示したものはその一つで、唐・智周(628~733)撰述『大乗入道次第』科文二の1枚であり、裏面に354行4段のわたって科文が陽刻されている。これによって摺写された刊本も伝わり、紙背に文保元年(1317)の文書があり、その頃の摺写と考えられる。