宗祖:興正菩薩叡尊上人   

 叡尊上人は、建仁元年(1201)大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土町)で興福寺学侶慶玄の子として誕生しました。7歳で母と死別し、11歳で醍醐寺叡賢阿闍梨の室に入り17歳で出家。主に密教を学びますが、当時密教行者の中に邪道に陥る者が多い現状に疑問を抱きます。弘法大師遺戒の「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや。すべからく顕密二戒を堅固に受持し清浄にして犯すことなかれ」の文言に触発され、密教修行によって菩提(悟り)に到達するためには、その前提として釈尊が定めた戒律をしっかりと遵守することが肝要であると確信し、生涯の活動の中心となる戒律復興の志を立てました。時に34歳。  翌文暦2年(1235)叡尊は荒廃只中の西大寺に入住し、更に翌年、同志四人で東大寺で自誓受戒を果たし菩薩比丘となりました。一時海龍王寺に移住しますが、嘉禎4年(1238)再び西大寺に帰住し、荒廃した西大寺の再建に全力を注ぎ、密教と戒律を日月のごとく兼修する「真言律」の根本道場という、面目一新した中世寺院として西大寺を復興する一方、ここを拠点に「興法利生」をスローガンとする活発な宗教活動を推進することになりました。  その活動は概ね二点に集約されます。すなわち第一に、当時遵守されなくなっていた戒律を重視し釈尊本来の仏教に立ち戻ろうとした戒律復興の活動であり、第二に、当時非人と呼ばれ社会的に疎外された階層の人々を中心に救済の手を差しのべてゆく救貧施療の活動でした。特に後者から叡尊上人は日本の仏教福祉史上の最高峰と評価されることも少なくありません。  その根本理念である「興法利生」とは、「興隆仏法(仏教を盛んにすること)」「利益衆生(民衆を救済すること)」の略語で、それぞれ叡尊上人の具体的活動である戒律復興と非人救済に結実しています。但し、叡尊にとって興法と利生は別々のものではなく、まさしく「興法利生」という一体の言葉で捉えたように、戒律を復興し本来の仏教を追求することは民衆救済に直結する課題でもありました。この点にこそ叡尊の仏教者たる真の面目があると考えられます。  叡尊一代の行蹟を記した『西大勅謚興正菩薩行実年譜』によれば、その生涯に菩薩戒を授けた道俗総数97710人、講席を啓くこと10721座、行法を修すること41208座、殺生禁断とした場所1356所、寺院新建100余所、修造590余所、西大寺に寄附した末寺1500余寺とあり、その活躍はまことに驚異的なものでありました。  正応3年(1290)90歳の高齢に達した叡尊上人は、8月25日、自ら禅定に入るが如く遷化しました。正安2年(1300)7月、亀山法皇は叡尊上人の高徳を偲んで院宣を下し、五朝の国師として四輩は菩薩と仰いだとその教化を讃美し、興正菩薩の貴号を贈りました。また後伏見天皇も同年閏7月3日に、「勅す、伝灯大法師位叡尊は、一天四海の大導師にして、濁世末代の生身仏なり」として重ねて興正菩薩の号を賜わったのであります。

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